ネット依存家族支援プログラム ~CRAFTをベースに~

当オフィスでは、インターネット依存の可能性のある方がいらっしゃる方をのご家族を対象に、家族支援プログラムを行っています。内容としては、CRAFTという依存症ご家族向けの支援プログラムをベースにしています。CRAFTは、「Community Reinforcement and Family Training」を略した名称になります。

CRAFTでは、ご家族のコミュニケーションをポジティブなものとしていくことを目指します。互いを尊重しあい、認め合い、ポジティブなコミュニケーションをご家族の中で増やしていくことで、家族間の衝突や互いに傷つけあうことをなくしていきます。依存症のご本人との感情的な口論はなくなっていき、治療に結びつきやすい建設的な話し合いが増えていきます。

ご家族もご本人も言い争いがなくなっていくことにより、精神的に楽になっていきます。ご家族は表情も次第にやわらぎ、途絶えていた会話も元のように戻っていきます。そうなると、依存症のご本人の頑なに治療を抵抗していた態度に変化が生じ始めます。または、ご本人とご家族にとっての望ましい行動が増えていったり、回避していた現実に次第に向き合うようになっていきます。

ご家族の依存行動に振りまわれることなく、根本的にご本人が抱える困難をどのように理解し、どのように対応していくかを考え、学んでいきます。

最終的に、ご家族全体の幸福を再構築し、ご家族は健康に毎日を暮らしていくことができるようになります。

こういったCRAFTベースにした、当オフィスの家族支援プログラムを受けた方々は、表情も柔らかく、口々に「楽になった」「家族のことや自分のことを考える良い機会となった」とおっしゃいます。最初は自分の在り方を変えていくことをしんどく思われるかもしれませんが、次第にご自身の変化が良い循環を招いていくと、心身共に楽になっていきます。

まだ、やれることは残っているのです。ご本人をよく知る専門家であるご家族こそが最善の治療者になり得ます。この機会に、改めて、ご家族の在り方をよりよいものにすることを目指してみませんか。

自傷

人はなぜ自分自身を傷つける行為をするのでしょうか。 

もしかしたら、自分を傷つけたり、血を流す行為は、理解されがたい行為かもしれません。「わざわざ、自分を傷つけて痛い思いをするなんて・・・」と。

私の中での「自傷行為」とは、自分を傷つけ、損ない、痛めつける全ての行為を意味します。リストカット、アームカット、瀉血、拒食、過食嘔吐、首絞め、数え上げれば切りがありません。また、ある人にとっては異性との性的行為が他者とのコミュニケーションとして大切なものである一方で、ある人にとっては自分を貶める行為だったりします。

つまり、その人の中でどのような体験、意味づけになっているかによると思います。

どんな場面で、どんな時に、何を思って自傷行為をしたのか。自傷行為の最中や、自傷行為をした後にどのような気持ちになるのか。どんな必要があったのか。

人はどんな行為も多かれ少なかれ、必要があってするものと思います。やむにやまれぬ思いの中で、自傷行為に及んでいるのだとしたら、どれほど苦しいことでしょう。

自分を傷つけずに生きていけるのなら、そうなりたいと考えている人も、自傷行為が日常化している方の中にはいらっしゃるのではないでしょうか。

無数の傷跡ややせ細った身体などを見ていると、その人の心の中で止まぬ悲鳴が聞こえてくるようです。

自傷行為の奥に、その人の本当の苦しみがあると想像して、お話しをうかがいます。自分を傷つける前に、その苦しみを言葉か、他の何かに変えていただきたいと思います。そうして、苦しみを言葉などにこめていく中で、いつか自傷行為は必要なくなる日がくるのではないでしょうか。自傷に駆り立てる、心の奥底の苦しみを解消する手段は一つではないのですから。

家族と虐待

私は家族からの虐待にあった方や、家族を虐待してしまうという方など、様々な家庭内の暴力にまつわるお話をうかがってきました。

家族内で虐待されたという方が成人して、その傷つきをそのままに苦しんで生きている方、心の内では血や涙を流し続けながらも外ではできるだけ「普通」に見えるように働いている方・・・
手をあげたくないのにカッとなって子どもに手をあげてしまう方、怒鳴り散らしてしまう方、ご自分のお子さんに危害を加えてしまうような衝動にかられる方・・・

虐待にあった方は家族を憎みつつも、その呪縛から逃れられず、フラッシュバックなどで何度もその暴力の記憶を体験し続ける方もいます。
虐待してしまうご家族は、自分でもどうしようもない衝動と怒り、自責感、子どもを傷つけて自らの手で失うことに怯え続けたりされています。

私の一番最初の臨床現場が児童養護施設だったこともあり、施設に来るまでに暴力を受けながら生活していた子どもたちと話すこともありました。子どもたちからは、やり場のない怒りや「自分が悪かったからしょうがない、親は悪くない」と、「自分が変わればきっと親に愛される」という思いを子どもたちから感じつつ、時を共にしました。その子たちに面会にくる親御さんにお会いしたこともありました。子どもたちは面会が終わって施設を去っていく親御さんの後ろ姿を窓からじっと見ている場面などもありました。

虐待をうけた方々は、「一生許さない」「恨んでも恨み切れない」「親と思っていない」など、怒りは底知れず、同時に恐怖や不安も計り知れないくらい抱えています。人と接する上でも、絶えず不信感や警戒心がぬぐえず、心を開けず、ずっと孤独に過ごされる方もいらっしゃいます。人とうまくつながれない中、一生一人で生きていくことや死に引き寄せられる思いの中で生きていったりします。

虐待してしまう親御さんの多くは、ご自身も何らかの暴力の被害にあっていたりします。また、ご自身が虐待を受けて成長してきた中で「親としてのお手本」を知らないままの状態で、どう接していいかわからず苦しみ続けていたりされています。「親としてどうあるとよいのか」を考えるほどに、ご自身の虐待を受けた過去の記憶に立ち返ることになったりします。

家族は距離が近すぎて、あまりに容易に感情はぶつかり合ってしまいます。毎日顔をあわせる中では、感情的になりすぎてしまうことがあります。家族はどうしたって互いしかいない中で、選択することはできない中で、どう家族や自分と向き合っていくか。

人は生涯苦しむのかもしれません。家族への憎しみと愛を巡って、それを互いにうまく伝えられない中で。

どうか、とりかえしのつかないことになる前に、虐待にあっている方も、虐待にあっていた方も、虐待をしてしまう方も、誰かに相談してみてください。苦しみながらも一生懸命生き続けているご自身やご家族を、どうぞ守ってあげてください。

思春期・青年期の悩みの在り方

例えば「一日中、ネットやゲームをしている」と聞くと、それは「一日遊んでいる」ように聞こえてしまうかもしれません。
けれど、私が病院でいろんなネット依存の思春期・青年期の子たちと話していくと、皆、苦しんでいたり、悩んでいます。
それはひどくわかりづらく、一見すると心の中と相反する態度に見えます。
話しを聞いていくと、どちらかというと真面目だったり、思いつめやすかったり、ひどく繊細だったり、悲しみに満ちていたり・・・

人が素直に自分の思い、悩みを言えたら、人との関係でどれほどの問題が解決するかわかりません。
けれど、社会ではストレートに言わないことが礼儀であったり、学生でも周囲と同じであることが同年齢の集団の中でうまくやっていく方法だったりします。

自分の気持ちに気づきにくいほうが生きやすい場面もあるでしょう。
現実が自分の望む世界ではない時には、より一層、自分を麻痺させてしまう方法が生き抜くには必要になってくるかもしれません。
青年期を過ぎて今や中年期である私は、人にはそういう側面があると思います。
思春期・青年期の子たちはいわんやでしょう。
彼・彼女らには、自分の気持ちを楽にするため自由になるお金も時間も、社会を生き抜く知恵もスキルも多くはもたないはずです。沈黙するしかない場面がどれほどあるでしょう。

思春期や青年期、10代や20代の子たちは、親御さんに自分の悩みを伝えることに抵抗がある方が結構います。
それがどれほど自分では抱えきれない悩み、痛みであっても、「親はどうせわかってくれない」「親が聞いたら心配するから言いたくない」「怒られるに決まっているから、言わない」など、親御さんにだけは言わないでほしいという声はよく相談の現場では聞きます。

そこにどんな心理があるのでしょう。
親御さんへの反発心や腹立ち、煩わせることを遠慮する気持ち、心配させたくないという思いやり、理解されないであろうというあきらめ、理解してもらえなかったという失望・・・

いづれも聞いてみないとわからないことですが、一方で思春期青年期の子たちの悩みはあまり言葉にされないという現状があります。
言葉にして伝えようとしたことが少ないのかもしれません。
自分の考えや思いがうまく言葉にならないのかもしれません。
自分の思いをあまりたずねられたことがないのかもしれません。

思春期・青年期の子たちの気持ちを知りたくなった時には、まず尋ねてみてください。
そして、どれほど沈黙があっても、辛抱強く待ってみてください。
彼・彼女らが必要な時間を与えてください。
いづれ、わずかでも彼・彼女らは少しかもしれませんが、その悩みや気持ちの正体を教えてくれるかもしれません。
きっと、辛抱強く待つに値する心の声を聴かせてくれることでしょう。その場を去ったら、その瞬間にその時の声を聴くことはかなわいのです。

摂食障害

食べたものを吐き出すという行動を理解できない人もいらっしゃるかと思います。
けれど、その行為が必要な方々もいます。

「ダイエットした方がきれいにみえる」
「好きな洋服を着られる」
「周囲の人の評価が好意的になる」

理由はそれぞれの方により様々で、最初は吐く気などはなかったのかと思います。
けれど、我慢は反動を呼びます。
我慢に我慢を重ねて、結果、空腹に耐えかねて、沢山食べるとします。
今度はその満腹感にひどい自己嫌悪に陥り、吐き出したくなる。
一度吐き出すと、「あ、吐き出せばいいんだ」とリセットされる気分になると、その行動は習慣化します。


「いくら食べたって、吐き出せばいいんだ」

おなかいっぱいにたまったものを吐き出して、すっきりとする感覚は、心にもつながり、心もどこかすっきりすることがあります。
体の感覚と心の感覚はつながっていて、「身体が温まる中で、心も温まり、リラックスする」「頭を冷やすは、心を冷静にする」「気分が悪くなると、吐き気がする」「嫌な体験がいつまでも心に残ることは、消化不良のように腹痛がする」「話してはいけないと感じていることを語る時は、知らず声がかすれる」

食べ物をのど元いっぱいにつめこみ、不快な気持ちになり、それを吐き出す時、胸のうちの不快な思いも吐き出されているのかもしれません。

けれど、不快な気持ちを吐き出す行為は、歯のエナメルを溶かし、食道の炎症を招く可能性があります。
やはり、一度胸の内に湧いた嫌な思いも吐き出し、なかったことにするのではなく、消化することがいずれ出来るようになると良いのではないでしょうか。

摂食障害の方々にはそれは簡単なことではとてもないでしょうが、嫌な思いも胸の内に抱き続け、その不快感に耐えていくことは、生きづらさに耐えることにつながっていくかと思われます。
そうしていく中で、胸のうちがいっぱいになるまで食べることがなくなり、不快な気持ちや自己嫌悪に全身が満たされることも次第に少なくなっていくでしょう。

「過剰に摂取せずにいられず、日常生活に支障をきたすようになる」という点では、依存症の一種として理解できるかと思われます。
ネット依存、アルコール依存、薬物依存、ギャンブル依存、買い物依存・・・
つくづく人は何かに頼らずにはいられない存在であることを感じます。
依存症とは、「個人の弱さ」ではなく、「自分の生きづらさとうまく付合う方法が見つかっていない状態」であり、「現時点でのその人なりの生きていく上での対処法や工夫」なのではないかと思います。

不快な気持ちを実際に「吐く」という行為ではなく、カウンセリングの場でその気持ちをどうぞ教えてください。
これまで吐き出さざる得なかった気持ち達を汚いものとして葬るのではなく、きちんと悲しみ、胸のうちにしまってあげてください。
貴方の大事な気持ちの一つなのですから。

家族会 ーグループの力ー

ネット依存のご家族にお集まりいただき、家族支援プログラムを行ううちに、「グループの力」というものを強く感じるようになりました。
それは、私一人では決して成しえないものであり、自然とそのグループの中から湧いてくる「それぞれがもつ力を引き出す」ものでした。

「他のご家族がどうされているのかを知りたいです。」「皆さんはこのような体験はありましたか。」
私が促したわけではない中で、自然と参加者の方が自発的に他の方の意見を聞きたいと声を上げます。
そして、アンケートをとると、いつの時でも、参加者のどなたかが「他のご家族の体験がとても参考になった」「色んなご家族があることを知り、勉強になった」「我が家だけに起きていることではないと感じた」など、必ず記入されています。

これらの参加者の方の動きや感想は、私一人でご相談にのっていたら、生じなかったものです。

私はグループの中で、多くのご家族の中で、ただ見守り、皆さんの「心の安全」にだけ配慮してそこに座っているだけでも、このような現象が起きることにとても感動を覚えます。

最初は静かでどこか重たい空気で始まっても、次第に緊張が和らぎ、皆さんの笑顔が時として見られるようになっていきます。
この移り変わりの中にいる時、私は「グループは生きている」と感じます。

毎回参加者の方が違う中で、「今日のグループはどのようになるだろう」と考えます。
「どうか、今日のグループが最後は参加者の方の生き生きとした表情の中で終われますように」と祈る気持ちで開始します。
そんな私の想像や願いをはるかにこえて、皆さんは様々な動きや表情を見せてくれます。
私が願うようなことではなく、私が下手に手出しをしなければ、自然とグループは息づいていくのです。

それぞれ違う家族が、同じようで違う悩みについて、皆で考える。
このことがどれほどご家族の方々を支えるかは、その場にいないとわからないことでした。

そういったグループが少しでも生まれ、それぞれのご家族が孤独に埋没しないように、私は私のできることをしていきたいと思います。

ひきこもるということ

一日部屋にとじこもり、同じ空間、物に囲まれ、外界に全てから自分を遠ざけようとする。誰とも極力接することなく、ただただ時間が過ぎていく。誰の声も届かず、また、自分の声も誰にも届かない。それが24時間、1か月、1年、10年・・・

考えているだけでも息苦しくなります。ご本人は安心なようで、常に恐ろしい想像に駆られているのではないでしょうか。そもそも「ひきこもる」ということは、外界に対して良い思いを抱けていたら、そうならないのだから。

「もう傷つきたくない」「人にどう思われるのか」「ここにいれば安心だ」「誰も自分のことはわかってくれない」「自分は外の世界ではやっていけない」

心の奥底にいろんな思いを抱きながら、それを誰にも訴えることなく、ひとり苦しんでいることを思うと、想像するだけでもこちらも苦しくなります。
一緒に生活するご家族も、尚のこと気が気でないでしょう。

大学病院でネット依存の当事者たちや家族と接する中で、他の依存症と若干異なる「ひきこもり」という現象と「ネット依存」の近さを感じます。
彼ら・彼女らは、不安を感じてるようでも、自分に言い聞かせるように「大丈夫。問題ない。」と、医療者や支援者に話します。危険な外界にひっぱりだされないように。苦しい現実をつきつけられないように。
自分の身を守るために、全力であらゆる支援の手が部屋の隙間から入らないようにしているように感じます。

拒否の力が強いほどに、彼ら・彼女らは恐ろしいのだと思われます。
まず、そのことをちゃんと、出来るだけ的確に支援者は理解する必要があると思います。

何が恐ろしいのか、どのように恐ろしいのか、どれほどの傷を負うと感じているのか、自分には何の手立てもないと感じているのか、様々なことを彼ら・彼女らの恐れを理解するために、丁寧に聴く必要があると思います。

その理解される体験そのものが、周囲への信頼につながる一因になるのではないかと私は考えています。「理解しようとしてくれる人がいる。」「外界に、現実に、助けてくれる人、サポートしてくれる人がいる。」と感じることが出来たら、外の世界に一歩踏みだす勇気が少しでも得られるのではないでしょうか。

インターネットの便利さの中、インターネットでの交流、「仮想空間」での交流が「普通」になってきている現在、様々な「現実世界での孤独」が見過ごされやすくなってきているように感じます。
このパソコンの向こう側にも、多くの孤独な人々がいるのかもしれません。

確かに生きていくことは決して容易くなく、上手くいくことよりも思い通りにならないことのほうが余程多いでしょう。けれど、諦めてしまうのはもったいない。もし、孤独などなたかが、もしくは孤独な方のご家族がこの文章を見ていただくことがあったのなら、それはきっとまだ生きることを、支えることを諦めていない証拠だと思います。

「今よりもまし」

「今よりもまし」な一歩を重ねていくことで、気づいたら「前よりは大分まし」、そして、いづれ「少しは生きやすくなった」になっていくと私は信じています
ひとりで抱え込んだり、解決しようとすることは誰にとっても、苦しいことであり、非常に困難なことです。
どうか、ご家族、もしくは信頼できる誰かに勇気を出して、声に、文章にしてみてください。
「ちょっときいてほしい」と。

家族療法

家族というのは不思議なものだと、臨床現場にいて改めて思います。

お互いをかけがえのない存在と感じていたり、他の誰に対してよりもそのままの自分を見せられたりする中で、距離が近いが故に傷つけあってしまうことがある。
お互いを分かりあっているようで、分かり合えていない。
気が付けば、どんな他人に対してよりも、胸の内を明かせなくなっている。

こういったご家族を臨床現場では、よくお見かけすることがあります。

家族の風通しが悪くなっていて、腹の探り合いになってしまっていて、家の中は沈黙で会話は地雷を踏む思いで交わされているのです。
「本当はこんな風に話したいわけじゃない」と個々にお話しをうかがえば、よくご家族はそれぞれおっしゃいます。

家族療法で、家族のメンバーが面接の場にそろえば、限りなく家庭に近い状況が再演されます。
しかし、そこにはカウンセラーがいることで、皆さんは若干冷静さも保たれます。
また、カウンセラーが通訳のように各自の言い分をまとめることで、次第に家族の風通しが良くなっていきます。

それは何年も空けていなかった窓が開いたように、新しい風が吹き込んでくるような様子を次第に見せていきます。
もちろん、長年の家族の習慣から、時折窓は再度閉じてしまいます。
その都度、窓が閉まっていることに気づき、なぜ窓は閉まってしまったのか、どのようにしたら調度良いのか、家の中の風通しを良くするために家族各自ができることを考えることがとても大切です。

ずっと一緒にいた家族が家族療法の中で、家族のある一側面を初めて知ることがあります。

「ずっと一緒にいたけれど、知らなかった」

ずっと一緒にいて、大切だからこそ見せられない一面があります。
でも、そのことが家族間で溝を生み出してしまうことがあります。

家族療法により、家族の橋渡しをし、お互いを思う気持ちに各自が出会えたらと思って、私は家族の皆さんとお話ししてています。

カウンセリングについて

人と人が対話する。

カウンセリングという対話により、これほど胸がふるえるような瞬間があるのかという思いを時に胸に抱くことがあります。

もちろん、カウンセリングのプロセルで生じることは良いことばかりではありません。苦しさから逃れられないもどかしさ、世の中の不条理、人に傷つけられる痛み、思ったように生きられない辛さ、底知れない怒り、心を引き裂く悲しみ、様々な思いをできるだけクライエントと共にするべく、私は対話を重ねていきます。

クライエントが立ち直れず、膝をつきそうになる時に、その腕をつかむ思いで、そばでひたすら耳を傾けます。

ひたすら生きづらい日々を生き残る。
いつかクライエントが自分の足で歩きだすことが以前よりも容易になるよう、それまで一緒の道中をご一緒させていただければと思っています。

「カウンセリングとは、人を理解するプロセスそのものだ」という言葉を学びました。

私はカウンセリングで人との対話を重ねてきて、今まさにそう思います。
同じ人間になれなくても、同じ世界をみることはできなくても、その人の感じていることを少しは理解できるようになると感じています。

その理解こそが将来クライエントの望む人生へのヒントになります。

クライエントと対話している時に、私は「生」を強く実感します。
カウンセリングの中で、クライエントが自分自身と出会い、自分を取り戻し、生きることを選択する時に、人が徐々に息を吹き返す様を目の当たりにするような体験をします。

私は一生カウンセリングを続けていくことでしょう。

学生相談

最初に学生相談に身をおいた時には学生たちがとてもまぶしく見えたことが記憶にあります。

学生達の相談にのっていく中で、彼・彼女らは自分ではまだ生計が立てられない中で、
わずかな自由の中でもがき苦しんでいることがわかってきました。

「クラスの人となじめない」「進級の問題」「就職活動について」「家族の問題」「自分の性格について」・・・

彼・彼女らの問題は山積しており、日々気持ちが揺れ動く中で対処し難い様子が切々と伝わってきました。

「昨日、死のうとして・・・」と語ってくれる学生もいました。

初対面の人に自分の思いつめた苦しい気持ちを語ることは容易なことではなかったと思います。

人生の折り返し地点にいる私でも生きることは決して容易くありません。
けれど、20歳前後の学生さん達に比べたら、少しはやり過ごす術もあると思います。

やり過ごす術をまだ持たない、ストレスに対処するにはお金や時間の自由のない彼・彼女らの世界でできること、対処法を一緒に一生懸命考えました。

私には想像つかないような現代でのコミュニケーションの在り方、大学からの評価の変容、「自分は何者なのか」という問い・・・

私も答えを出さず、出さないままにやり過ごしてきた問題に彼らと共に向き合う場面が多々ありました。
彼らの毎日は一つ一つの出来事の刺激が強く感じられるようで、また、一日の長さも私が感じるよりも長く感じているようでした。

同じ時間を生きながら、全く世代の違う二人で懸命に問題に向き合う作業はやりがいのあるものでした。

いつかまた、学生と向き合って、生きることについて、自分について、まっすぐに正面から向き合う作業ができたらと思います。
そして、卒業していく学生のどこか晴れやかな姿を見届ける日が再度来たらいいなと思っています。