ネット依存について

「何かに頼らないでいられる人がいるのだろうか」と私は思っています。
誰だって、自分ひとりの力だけではやっていけない時があるし、そんな時には何かに助けてもらえばよいのではないかと思います。

依存症の問題は、依存対象が日常生活にまで浸食し、周囲の大切な人や物をも図らずも失う状態にまでなってしまうことにあると私は考えます。

つまり衝動をコントロールできなくなってしまう状態です。

「不幸になりたい人はいない」と基本的に考える私はネット依存を「本人の甘え」「怠惰」という風には考えません。
ネットの世界に助けを求めざる得ない状態であって、ネット依存の問題はご本人の抱える問題や苦しみの氷山の一角に過ぎないと考えています。
「ネットやゲームをやめれば全て解決」というわけにはいかないと考えています。根本的な困難に対処していかなければ、依存対象が変わるだけという場合もあります。

「このまま一生引きこもってネットだけやっていく」と考え、心の底からその状態を幸せと思っている人はほとんどいないのではないかと思います。

苦しんでいるけれど、それを伝える言葉はうまく口にできなくて、周囲に伝える言葉や態度は本心と違えてしまっているのではないかと感じます。

支援者としては、それを本人の本心ととらえてしまうのは、若干早計であり、少し酷ではないかと考えます。
私にはご本人たちがネットやゲームなどの依存対象を片時も手放せない様子は、苦しくてたまらないように見えます。

人の言動のあたたかさが直接伝わり、沈黙も心の交流となる現実の世界に戻ってきてほしいと、ご本人に接するときに切に願います。

そのためにできること、それは画面の向こうよりも現実の世界のほうが、居心地が良くなるようにすることと考えています。

そして、それができるのは、ご家族、またはそれに代わるご本人を大切に思う周囲の方々です。

どうか現実世界でご家族や周囲の人、皆がご本人を待っていることを伝えてあげてください。

トラウマケア

「人によって傷つけられた時、人を信じられるようになることはとても難しいように思う。だからこそ、他者の存在が必要なんじゃないか。」

そういう思いをいつしか抱くようになり、被害者支援を中心にやっている大学院に入学しました。

「トラウマ体験」とは私が考えていたよりもはるかに壮絶な体験であり、私は間もなく言葉をなくしました。

「私は相談員なのに、かける言葉がみつからない。」

そういう思いを、無力感を抱きながら、ただただじっと相談者の方のお話を聞いていました。
相手の方の傷つきを理解できていない自分を、面接を重ねるほどに痛感するばかりでした。
私がすることといったら、相談者の方の見えている世界が少しでも見えるようになるため、相手の方に質問をすることでした。
そして、時折、私の理解していることがずれていないか、相手の方に確認していきました。

そういった面接を重ねることで相手の方に私の理解を否定されることが次第に少なくなっていったように感じた覚えがあります。
二人の間で大きくあったであろうズレが本当にわずかですが、少し縮まったように感じていました。

決して同じ世界をみることは叶わない中で、起きたことはなかったことにならない中で、対話と沈黙を重ねていきました。

あの面接の日々で私が目指したことは

「話を聞き続けること」「あきらめないこと」

だったと思います。

傷つきと共に生きていくこと、苦しみを生き抜くこと明確なスキルやプログラムをもって短期間で終えることは私にはできませんでしたが、相手の方の苦しみと共にあることを心がけました。

非情な体験に遭われた方の誰にも理解されない苦しさに耳を傾けつづけました。
深い絶望の中にいた方から、相談の中で「おきたことはなかったことにならない。なかったことになることを私は求めていたのかもしれない。」「自分にはどうにもならないことがおきるけれど、それでも生きていこうと思う。」といった言葉を聞く時、私は深い尊敬の念を相手の方に抱くばかりでした。

時を経て、私のやっていることが大きく変わったかというと、それほど変わっていないかもしれません。

私にできることはやはり相手の方の話をどこまでも聴き続けることだと今も思っています。

私が受けたスーパービジョン

                                  

「私は、スーパーバイズは治療者のリペアーだと思っている」

約10年間私の臨床を支えてくださった先生は、スーパーバイズのことをこのようにおっしゃっていました。

その先生は約1年前にご病気で亡くなられました。

約10年間、隔週で受けてきて、計250回ほどでしょうか。
端的な言葉で私の傾向や臨床の在り方や癖を気付かせてくれました。

電車が止まって再開の目途が立たなかった時に、スーパービジョンの
予約の変更をお願いしようと何度か連絡しました。
結局なかなか連絡がつかず、いろんな電車を乗り継ぎ、何とか先生のもとへ辿り着くことができました。

何とかたどり着いた私に残された短い時間で先生は静かにこうおっしゃったのをよく覚えています。
「君が最初にとった行動は休む連絡。こういう急な事態に、その人の特性はよくあらわれる。君はあきらめが早い。」

そしてさらにこのように仰いました。
「君があきらめることで今日相談しようと思った面接が今後どのようになるかを考えたことはあるか。もしかしたら、その面接をここで相談する日はこの先こないのかもしれない。」
叱るのではなく、静かに問いかけてきました。

私は初めて、「あきらめること」について深く思いを巡らせました。
このことがあってから、私はよくよく自分があきらめそうになっていないかを考えます。
自分にできないことを無理にやろうとすることとは別の話です。

自分のできること、自分の責任、自分の覚悟をよく自分に問いかけます。

約10年間先生が亡くなるまで私は自分の在り方を少しは自覚できるようになったけれど、
変わることはほとんどできていないのではないかと思います。

でも、ここまで臨床を続けることができました。

先生の仰っていたような「優れた臨床家」とはとても言えない自分だけれども、私に話をしてくれる人がいる以上、続けていこうと思います。

「君は臨床家なんだよ」と言ってくれた先生の言葉が胸に残っています。
先生の言葉は私の中の臨床の教科書となり、臨床の日々で先生の言葉がふっとよみがえります。
先生が何もお話しなさらなかった30分の沈黙の日も私には貴重な学びとなりました。
私は今も先生のスーパーバイズを受け続けているのでしょう。

私の本当にわずかながらの成長を見守ってくださった先生が私にいたことを幸運に思います。

先生、ありがとうございました。